メモ2

メモ

 

syasyasyakaijin.hatenablog.com

 


ココらへんの続きの話。メモです。

 

 とある本を立ち読みしました。あとで買おうとおもいます。やっぱり心の性ってあるみたい。ジェンダーアイデンティティというらしい。そしてジェンダーアイデンティティを男女どちらでもない、か男女どちらも、あるいはそのどちらかさえも決定不可能な人をXジェンダーと呼んでいるらしい。そしてジェンダーアイデンティティとセックスが一致する人をシスジェンダーと呼ぶらしい。

 

 ジェンダーアイデンティティは考えるものではなく感じるものだからいくら頭の中で考えてもそれを実感することはできなくて何かの拍子に違和を覚えたりして自分のジェンダーアイデンティティを感じるらしい。シスジェンダーでも自分のジェンダーアイデンティティを確固たる理由を持って証明できる人はいないのではないか、という記述もあった。

 

 じゃあまあ俺は男なんだろうな、と。なんか数日間女として生きるとか言ってみたがそんなことも忘れて普通に生きてた。特に女として意識するわけでもなく、かといって男としての意識があったかといえばそれもない。でも男に違和感があるかといえば確かにないし、男扱いされて嫌だったとか違和感を覚えたとかいうことはない。きっと女扱いされたら違和感を覚える。

 

 なんかよくわからない領域のところに目には見えないジェンダーアイデンティティがあって、実感することはできないけど何となく感じることができる、みたいな感じなんだろうな

 

 つーか、Xジェンダーという概念を知ったから自分はXジェンダーじゃないのかと疑ったり、性同一性障害という概念を知ったからそうじゃないかと疑って自己暗示的にそうなることありそう

 

 

 

一人称について

 一人称ってむずかしくないですか???? こんなことに迷うくらいなら日本語話者じゃなければよかった。

 

 でも、一人称があるからこそ、アイデンティティが多様化する? と思うんですよ、”Who am I ?”って問も「わたしは何者か」と訳すこともできるし、俺は、僕は、ワシは、拙者は、でもいい。自分の一人称ってなんだろうと考えることがアイデンティティの確立に繋がる気がするんですよ、むしろIだけでアイデンティティが確立できるの??? とやや疑問なところがありませんか。

 

 わたしは、性別を不詳にするためにブログでは「わたし」をもちいています。嘘です。でもほら、何となく「俺」だと男っぽいし、前回の勝手にふるえてろの感想とかはあえて「わたし」に統一して女性っぽさを出してるわけです。ジェンダー的な話ですけど、一人称が性別や性格に関わってきそうなのは確かです。

 

  むかし、オレっ娘の女の子と知り合いになりまして、それはそれは痛いなぁと当時は感じていたのですが、誰がどの一人称を用いようがその人の勝手なわけですね、女の子が僕や俺を使っていても問題ないわけです。

 

 なんとなく、公的な場だと「私」と言わざるを得ない感があります。オレっ娘の彼女も公的な場では「私」と言っていました。わたしは、公的な場では「私」ないし「僕」を使っています。

 なんか変な話だと思いませんか、何使ったっていいと思うんですけど。積極的に公的な場でも「俺」と言っていきたいですね。はい。

メモ

いつか役に立つかもしれない。立たない可能性のほうが高い。

 

 

 心の性なんてものはない気がする。ずっと思ってることだ。性という概念は主に身体の性であるセックス、社会的文化的な性であるジェンダー、そしてあらゆる性行動を総称したセクシャリティに分けられる。というか似たような話をした。

 

syasyasyakaijin.hatenablog.com

 

 性自認と性指向に関してはセクシャリティに属するはず。だからおそらく心の性みたいなものはセクシャリティに分類されるもの。ジェンダーレス男子、女子なんて言葉が、中性的な人を表しているためになんとなく、ジェンダーが心の性的に受け取られるかもしれないが、ジェンダーはあくまで社会的文化的な性であって、いわゆる男らしさ、女らしさなのであるから、ジェンダーレス○○は、そういった偏見に囚われない”格好”をしようということなのだろう。そう、だからジェンダーレスはあくまでもスタイル。

 でもトランスジェンダーは明らかに性自認や性指向のお話で、セクシャリティジェンダーの厳密な区別はなされてないようにも思える。わたしの認識が誤ってるのかもしれないし、そもそもそんな名前はどうでもよい。

 

本題

 ジェンダーだろうがセクシャリティだろうがどうでもいい、心の性というものはあるものだとされている。だからこそ性同一性障害みたいなことが起きるわけで。この性同一性障害トランスジェンダーと全く同義ではないらしい。詳しいことは分からないがトランスジェンダーの中に性同一性障害が含まれる、という解釈でいいらしい。そんなものどっちでもよい、心の性なんてないという立場に立っているのだから。

 

 わたしは心の性を実感したことはない。自分が男性、あるいは女性、どちらの性でもないと明確な理由を持って断言できる人はいるのか。勿論心の話である。性分化疾患でもない限り、身体を見ればセックスがどちらか分かる。よくわからないものは心の方だ。

 

 ジェンダー的な偏見にまみれてない世界に子供を産み落としてみたい。どうなるのか。心の性なんてものはジェンダーによって支配された社会によって生み出されただけではないのか。性別という概念を知らない人物が自分の心の性を実感できるとは思えない。だいたい、だいたいにして心の性というのは主に口調だったり、考え方だったり、感情だったりと関係があるわけでしょう、心の問題と密接につながっているわけだから。それってなんなの、こうだから男性、こうだから女性というのは古くから根付くジェンダー的な偏見に基づくものじゃないですか。結局、そういうことでしょ。それが物語っている。心の性として言われてるものとジェンダー的性差で言われることは一致する。戦隊ヒーローや電車が好きだから、男性? 

 

  どの性別を好きになるか、性指向は心の性とは関係ないことがレズビアンやゲイの存在が証明している。関係ないんだよ、どの性別を好きになるかは心の性とは関係ないの。じゃあ他のファクターは心の性に寄与していいのかよ。何故性指向とかいう大半の男女で決まっている事項が心の性とは無関係だっていわれているのにその他の何かしらが心の性を決定する要因になり得る。

 

 よくわからなくなってきた。心の性を実感する要因を教えてください。自分が男だ、女だと断言できる根拠を教えてください。それがジェンダーに基づいたものでなかったら納得してこの記事を消します。メモじゃなかった?

ゆりしぃリリイベレポ

大好き遠藤ゆりか

 先日、皆さんご存知遠藤ゆりかさんのシングルベストである「Emotional Daybreak」のリリースイベントに参加した。内容はトークショーとお渡し会という感じ。彼女は今年の5月末で芸能界を引退すると表明しており、直接会ってお話をする場はもうないと思い何としてでも当選したいと願っていたら当選した。ありがとうございます。

 最後のリリースイベントなので今までの感謝を伝え、しんみりした感じになると思っていた。が……?

 

エモトークショー

 もう、ゆりしぃがずっとエモいエモい言ってた。「こいつ語彙それしかねぇのかよみたいな目で見ないで」みたいな発言をしていたけど正にエモいしか言ってねぇな……と思っていた。いやでも、エモいわ。エモすぎる。激エモ。

 アルバム制作過程、とてもエモなもの。タイトル先行で本人が「Emotional Daybreak」と決めたらしい。エッッモ。ゆりしぃ曰くエモといえばゆっぺさんしかいない、と依頼をしたらしい。エッッッッッッッッモ。この発言がなされたとき大きくうなずいてしまった。電話でイメージを伝えたらそのあとすぐに曲ができていったみたいな話もエモくて、詞も一日で書き上げたらしい、エモ。

 あと、ジャケ写がもう、エモの塊で夜明けの10分程度しかあの空を撮れないというのがもうエモすぎた。そこに立つゆりしぃはなんだか儚くてエモだった。

 また、その後続けて撮られたという幾枚かの写真も見ることができた。エモい。

 この写真がとても大好きで。この写真を見たとき更に遠藤ゆりかさんをもう見ることができない寂しさを抱いた、というか。この表情、笑っているように見えるけど手で口元を隠していて本当のところどうなのかわからなくて、ツイートの「混ざり合う感情の中」という言葉の通り、この表情は混ざり合う感情を表しているのかなぁと思ったらもうエモでしかなかった。この表情、立ち方、口元を隠す左手。儚くて、ちょっと幼くて、美しくキレイなのにロックでカジュアル。いろいろな要素が盛り込まれていて、これがゆりしぃの集大成なのかなって気がした。ほんと、見てるだけで泣けてくる……

 

 

お渡し会レポ

 

 ポスターをゆりしぃから受け取った。何言おうかなって考えていて、今までの感謝の気持ちとか、いなくなって寂しいとか言おうと思っていたんだけどトークショーが思いの外楽しい感じで、お渡し会でしんみりしちゃうのもあれだしなぁと思ってノープランで行こう、と。本人もお通夜みたいになることを心配していたし、楽しく終われたらいいなぁなんて考えていた。結果がこれなわけだが。

 

僕「 女の子なんで贔屓してください」
ゆ「女の子には見えないなー」
僕「えー見えませんかねー(クソキモ笑顔)」
ゆ「お名前なんていうの?」
僕「(数秒無言)考えてなかったwwww」

 

 こんな感じでありがとうございましたといって別れた。解説をしておくと、女性客が結構多く、ゆりしぃが女の子贔屓して抱きしめてあげたいとか言いながら肩をポンポンしてたりして、「誰も見てないよね」なんて言ってて超可愛かったんだよね。いや女性客に贔屓したって僕らは全然構いませんよ、と。むしろやってくださいよ、と思いながら待っていた私の発言がこれ。最低ですね。ちゃんとお礼とお別れの言葉を伝えておくべきだったかもしれない。でも、笑ったら緊張しなくてちゃんと話せたのはよかったかも。好きだよゆりしぃ。ごめんね、ちゃんと思いを伝えたかったんだよ本当は、なんだこのへんなやつって思ったかもしれないけどちゃんとゆりしぃを好きなオタクなんだよ。

 

 

 

 

そしてこんな記事が

news.ponycanyon.co.jp

 

エモい以外の語彙あるやんけ!!!!!

 

 

 

というわけでエモさ2000%のレポを終わります。最後に、イベント前に配られた用紙に記入したゆりしぃへのメッセージを思い出して書きます。

 

 

   遠藤ゆりかさん

 あなたと出会うことができて本当によかったです。今までありがとうございました。「Emotional Daybreak」は表題曲は勿論、収録曲すべてがいい曲で、名盤です。ゆよゆっぺさんの曲を歌うとわかったとき、感動しました。あなたが声優をやめても私は遠藤ゆりかさんのファンです。あなたが残したものは、曲は、声は、残り続けます。これからも応援しています、頑張ってください。

 

Twitterができなくて頭おかしくなってきた

 そろそろTwitterができないことによる禁断症状がでてきた。もう限界、こんなの死んだほうがマシだ。ためこんだ気持ちを吐き出す場所がない。たすけてくれ、俺はどうしたらいい、どこにこの思いを吐き出したらいいんだ、ここか。ここが俺の逃げ場所だったか……

 

経緯

 俺はTwitterをやめたらしいです、記憶にねぇ。なんか思い立ってあのアカウントでツイートするのをやめようと、決意文をツイートした上、その後ツイートをすべて削除した。でもまぁそのうちしたくなったら戻ってくればいいやとヘラヘラしていたのですが。なんとその直後にアカウントがロック。

 

 Twitterやめるやめるのゴタゴタでフォロワーのドアスペと口論になり(口論というか本当に話が噛み合わなくて怖かったんだけど)、暴言を吐いてしまいそれが報告され(どの立場でおまえは報告なんてしてるんだよって感じ)たらしく、めでたくアカウントロック。しかも公式アカウントにログインしていたいくつかのアカウントもまとめてロック。

 

 

 しかもここからが最悪で、通常アカウントロックは電話番号入力すれば解除されるんだけれどどうやら電話番号は複数アカウントに使用可能、ただしその数は定かではなく、おそらく電話番号を一度登録してしまうと削除してもその電話番号で登録できるアカウントが増えることにはならないという仕様らしい。つまり、俺の電話番号では登録できるアカウント上限を迎えた、と。

 

 

 これは推測なので本当かどうかは定かではない。実際、上限に達したかと思いきや、電話番号登録を削除してからアカウントロックを解除できた例があり、電話番号の削除が何らかの影響を及ぼす可能性もある。

 

 

 また、凍結されたアカウントは電話番号登録を削除することができないのだが、そこにも俺の電話番号が登録されている。それも関係しているのかもしれない。凍結されたアカウントをどうにかしない限り、アカウントロックは解かれないのかもしれない。もしかしたら。

 

 

二週間

 

 そんなこんなであのアカウントが使えなくなってから二週間が経過した。

 

 

 俺はかろうじてアカウントロックを解除できた3つのアカウントを使って今までだとあのアカウントでツイートしてたようなうんこみてぇなクソツイートを垂れ流している、迷惑極まりない。リアルの関係がある人間がいるアカウントで頭使ってないツイートをしたくない。

 

 

 かといって今更知らねぇ人間と交流をもって俺のクソツイートを見てもらって、知らねぇやつのツイートを見て何らかのツイートするのもめんどくさい。ちょうどよかったあの雰囲気を取り戻すことはできない。

 

 

 もともとTwitterやめるつもりだったんだからそれでよかったのかもしれない、いやでも禁断症状が出始めてるんだよどうしたらいい。

 

 

 

 

 というかこのブログを誰が読むんだ。今まではあのアカウントにリンクを貼り付けてたのでフォロワーの誰かが読んでいてくれたが。

 

 もう誰もこのブログを読まないのではないか。

 

 

 誰か、知っている人がみていたら、。あの頃のフォロワーがみていたら。

 

 

 私はここに生きています。アカウントロックされてツイートできないのです。助けてください。

レディプレ、観た

レディプレ、観た

 「レディ・プレイヤー1」を観てきました。通称「レディプレ」らしいです。

 やっべーーーって言いながら2D字幕版を観た二日後に3D吹替版を観ていました。だって、やっべーーーーーーーーーんだもの。

 なお、ネタバレ配慮はしません。

スピルバーグ

 この映画の監督は言わずとしれた名監督、スティーヴン・スピルバーグです。恥ずかしながら洋画には疎く、今年観たペンタゴン・ペーパーズが初めてのスピルバーグ作品で、レディプレは2作品目でした。周りの大人に言えば驚かれるかもしれないが、今の20歳、案外こんなものなのでは。

 

 

感想

 

 私は通常、観た映画のレビューをレビューサイトで書き投稿しています。ですが、このレディプレはレビューを書きませんでした。レビューを書くべきではない、書いちゃいけないと思ったからです。こんな天才的作品に私みたいな存在が何かしら文章を付与することに何の意味もないと思ったからです。

 しかし二回観たこともあり、この想いを文章として残そうと思いました。(いやまぁ

レディ・プレイヤー1の感想を書いた学生に映画代を渡します – ところてん – Mediumを見てですけどね……)

 

 

観た経緯

 レディプレが公開されるまでこの映画の存在を全く知りませんでした。公開され、CMや他の人のツイートを見て、どうやらこの映画はヤバいらしいと。TOHOシネマズの鑑賞ポイントを使って無料で観ることができたので観に行った次第です。実際観た結果、やっべーーーーーとしか言えませんでした。あと、お金払いてぇって気持ちになりました。

 

 

2045年

 この映画は2045年が舞台なんですが、今から27年後のことです。今から27年前が1991年なことを考えると技術革新が半端ではないことは容易に想像できます。描かれる世界は今から27年後に相応しい未来的な技術、そしてある意味文明が退廃した(それはVR世界であるオアシスにのめり込む人間が増えたことともリンクして) 世界でした。未来に希望はある、確かにあるが何もかもが望まれるものではないかもしれない、オアシスという第二の世界で心地よく暮らすという理想は叶えられるかもしれない、だが現実世界は必ずしも良いように運ぶとは限らないということなのでしょうか。

 あんなスラム街に住まざるを得ない世界でオアシスなんてものがあったら当然、そこに入り浸りますね、私だってそうします。今すぐにだってヘッドセットをつけたいくらいです。

 

レディプレとSAO

 えっと、素晴らしきレディプレとソードアート・オンラインを同列に語っていいのかわかりませんけど。平気ですかね(決してSAOをけなしているわけではなく)

 SAOは大して観たことがないのでにわかかつおぼろげな知識なのですが、確かSAO世界だと身体を動かすのに現実世界の身体を動かす必要はないんですよね。意識しただけで身体は動かせるし、五感も再現されるはずです。痛覚遮断機能もあるらしい。

 一方、レディプレでは、現実世界の身体とオアシス内での身体がリンクしており、そのためにあのランニングマシーン(なんていったか忘れた)とかワイヤー(なんていったか忘れた)があったわけです。五感に関しては、視覚、聴覚、触覚(スーツ等着用により)が得られ、おそらく嗅覚と味覚は得られません。”食事”がキーですしね。そしてSAOとは対照的に痛覚までもリアル感を求め再現することが可能です。

 

 SAOは2022年が舞台なのでレディプレより23年も前の話です。なんとなく、SAOのシステムのほうが未来的な感じがしませんかね。私はしました。実際、何年後かにのめりこんで生きることができるレベルのVR世界が生まれたとき、どうなるかとても楽しみです。

 

 

元ネタ

 この映画には多くの作品がクロスオーバーします。原作を書いたアーネスト・クラインが日本のポップカルチャーに関心があるらしく、日本の作品のキャラクターも登場します。

 冒頭の記述で察せられるかと思いますが、私はレディプレに出てくる他作品のキャラクターやアイテム、つまりは元ネタがほとんどわかりませんでした。今まで観た映画のあれもこれも出ている! と感動している人々の気持ちを分かることができないのが本当に悔しくてならない……

 

 デロリアンはまぁ知ってるな、AKIRAは作品名だけ知ってる、これはジュラシックパークなのかな、キングコングか、シャイニングって映画があるんだ、メカゴジラガンダムは知ってるぞ、チャッキー? 見たことはあるな、波動拳!!!

 

 本当にこんな感じです、衝撃を覚えるかもしれません。何が言いたいかって、元ネタを知らなくても十分楽しめるし、きっと元ネタを熟知してたら2000%楽しめるんだろうなってことです。

 

 

俺はガンダムで行く

 俺もガンダムで行きたい、誰しもがそう思うはずです。思いませんか。

 

 この、「俺はガンダムで行く」はかなり鑑賞者の印象に残っているらしくツイッターでも話題でした。この台詞を聞くことも観に行った理由の一つでした。「俺はガンダムで行く」もうエモいとしか言えません。森崎ウィンしか信じられない。

「俺はガンダムで行く」字幕版でも、というかアメリカで放映されたものでも日本語なんですよね。字幕で”I choose the form of Gundam” と出ます。これを日本語で、しかも「俺はガンダムで行く」という100点満点の台詞を言われたらもう泣くしかありません、鳥肌が止まりませんでした。しかもメカゴジラと戦うんですよ、ガンダムが……例によってガンダムゴジラも大して観たことのない私でも。

 

 この「俺はガンダムで行く」自分だったら何で行くかなと考えられていいですよね、私だったらそうですね、ゴーラ・モスカで行く。

 

 

 

まとまらないまとめ

 情報量が多すぎて頭の中がごちゃごちゃになりますね、うまくまとまればよかったのですが。とにかく、すっっっごく面白い映画だったということ、クロスオーバーされる作品を知らなくても十分楽しめること、「俺はガンダムで行く」を聞いてくれ、ということが伝わったら幸いです。ところで、丁寧体のブログって読みづらいですかね。それではまた。

 

 

 

 

 

もう漫画村を読んでいた人間に金を払わせることはできません!!

 

syasyasyakaijin.hatenablog.com

 

  以前こんな記事を書きました。無料で享受できるものは凄まじい勢いで大量に消費され、その価値はだだ下がりしてしまうといった内容でした。

 

 

 

 さて、昨今話題の漫画村ですが、正にこの無料で享受できるコンテンツに多くの漫画が該当する自体となってしまいました。本来お金を払って得るべきではあるが、無料が当たり前になってしまったものに今更お金を払わせることはできません。

 

 それを防ぐ手立てとして体験を用意し、お金を払わせるというものがあります。おおよそ複製が不能で無料で得られないような形で漫画を提供できたら勝ちなんでしょうが、どうにも難しい気がします。

 

 もう諦めるしかないのでしょう。一生お金をかけず漫画を読み、音楽を聴き、ものの価値もわからない人間として生きていけばいいのです。